原理原則=世のため、人のために生きる

 

 

 

 

 

 

 

自己実現とは?

  

たった1人でそれを成すことはできない。

観えない自分、モノゴトの是非を知るのに、鏡となる誰かが必要だから。 

 人は1人で生きていけるものではない。

 

人は観たい世界しか観ていない。

『~しなければならない』というMust。

『~できる』というCan。

『~になりたい』というBe

 

こうせねばならない、という常識でもなく

できる、できない、という可能性の視点でもなく

これが大切だから、する、しない、を自由に選択する生き方。

 

『自分が観る世界』が実現していく。

思い描いた世界は少しづつ、着実に実り始めていく。

夢見心地で描いた『自分が観る世界』のデッサンは、いつの間にか色鮮やかになっている。

季節が3ヵ月ごとに変わるように、1年がひとつの節目であるように。

自然の摂理の如く変わっていく。

諸行無常、常であることは何一つない。

 

生きていく中では、あらゆる【問題】がある。

それはすべて『世のため、人のために生きているか?』という定期テスト。

何か、大切なことを見失っているときに、【問題=定期テスト】は訪れる。

大切なことを思い出させるために、試練として【問題=定期テスト】は度々、訪れる。

しかも一瞬も早くも遅くもなく。

 

何かしらの成功をつかんだ、幸せになれた。

それは自分ががんばってきたからだ。

今のままでいい。

勝ち取ってきたものを守りたい。

 

そんなときほど、注意が必要。

もっと成長した自分があるとするなら、どんな姿だろう?

もっと世の中に、人の役に立てるとしたら、どんなことだろう?

『なりたい自分』のイメージをさらに向上させ、行動を進化させ、人生を創っていく。

 

人は3か月経つと、骨以外、概ね全ての細胞が生まれ変わる。

人は生きながらにして、生まれ変わりたいように、生まれ変わり、なりたい自分になれる。

 

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。

言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。

行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。

習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。

性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

マザーテレサ

 

思考の前にあるのは『感情』。

魂、心、潜在意識、インナーチャイルド、グレートサムシング、宇宙意識とも呼ばれる。

現代において、様々な宗教観、思想、文化の中で、『感情』もまた多様化している。

その感情が起こす、衝動は、1人1人顕れ方が違う。

 

『感情の性質』なるものを『Spring』と呼んでいる。

Springは英語で『春』、『泉』という意味。

 

生命の息吹が春に訪れるように、人もまた心の泉『Spring』から湧き出るものによって始まる。

『嬉しい』 『楽しい』 『悲しい』 『許せない』 といった『感情』。

例えば、大雨が降り、川が氾濫したら人々は、治水工事を施し、人の安全が保とうとする。

それは、大切な人の死や別れがあったときと、似ている。

悲しみに溢れ、悲しみに打ちひしがれ、 夜が明けるように、悲しみから解き放たれはじめた時、ようやくその人への感謝を想い、その人の遺志に報いるよう、その人から学んだことを胸に、人生を新たにスタートするように。

 

例えば、まったく雨が降らなければ、泉や川がカラカラになり、農作物は採れず飢饉に陥る。

それは、日々を意味なく過ごし、無感情になり、生産的な行動を止め、生活苦に陥ることと似ている。

 

人は何かしらの出来事に応じて

『ある感情が湧き起こり、あることを考え、決め、行動し、結果を導く』といったプロセスを経ていく。

大雨や日照りといった天気はコントロールできない。

出来事に応じて湧きあがる感情に対して、反応を選択することはできる。

その反応はすべて自分が決めている。

 

結果を変えるためには、行動を変える必要があり、

行動を変えるためには、思考を変える必要があり、

思考を変えるためには、『湧きおこった感情への反応(思考)』を選択する、ということ。

 

厄介なのは、『湧きおこる感情』は連続的に移り変わること。

激流をくだるカヌーのコントロールがとても難しいことによく似ている。 

川には、流れが決まっているように、ひとの心にも『流され方の癖』がある。

その『癖』を『知る』ことが大切。

大体いつもこういったところに来るとこうなるんだよなぁ、といったパターン。

敵を知り、己を知れば、百戦危うからず。

自分を知ることが、実はもっとも難しいこと。

あたりまえ、とか、わかっているって思い込んでいるから。

 

例えばバスに乗っていて松葉づえをついているおじいちゃんが立っていて、自分は座っている。

その時、どのような感情が湧きおこり、どう行動するだろう? 

 

①松葉づえをついた経験のあるAさんの心情。

 

(立っているのがしんどそうだなぁ)

(自分が松葉杖をついていたとき、席をゆずってくれた人がいたなぁ)

(あの時は嬉しかったなぁ)

(わたしも席を譲ることにしよう。)

 

②松葉づえをついた経験のないBさんの心情

 

(きつそうだなぁ・・・)

(でも席をゆずったほうがいいかなぁ)

(余計なお節介になるかもしれないしなぁ。)

席を譲らなかった。

 

③松葉杖をついた経験はないけど、席をゆずったことのあるCさんの心情

 

(あ、きついのかなぁ)

(でも席をゆずって、昔みたいに、怒られたらいやだから、やめておこう。)

以前、譲ったとき、(わたしはまだ、そんな年じゃないです)

と怒られた経験を思い出し、席をゆずらなかった。

  

 

✔みんな、きつそうだ、しんどそうだ、と、そのおじいちゃんをみて『一瞬、かわいそう』だと感じた。

✔松葉杖をついた経験、席を譲った経験があるか、ないか

✔その結果どのようなことを感じたか

 

そのあとの選択に差を生んだ。

  

✔自分のためか?おじいちゃんのためか?という選択があった。

✔ 『体感』した経験の有無が思いやれるかどうかの差を生んだ。

✔席をゆずった経験によって差を生んだ。

 

Aさんは、席をゆずったほうが絶対にいいと確信する実体験があった。

Bさんは、経験がなく判断しきれなかった。

Cさんは、席をゆずったことで嫌な想いをした実体験があった。

ここで、想像力を働かせたい。

 

同じケースが100回、続いたら、どうだろう?

Aさんは、席をゆずり続け、いつも感謝され、気持ちの良い毎日を過ごしている。

Bさんは、席を譲ったり、譲らなかったりしながら、AさんかCさんに近づいていく。

Cさんは、いつも結局、席を譲らず、心にわだかまりが(無意識的に)残っていく。

 

✔それぞれの社会生活にどんな影響があるか?

 

Aさんは行動が早い分、失敗も多いが、修正が早く、成果に到達しやすい。

結果、仕事も有能と評価され、収入も高く、どんどん機会が与えられる。

 

Bさんは、遅いものの行動を起こせる分、じわじわと成長し、じわじわと仕事の成果もでてくる。

慣れたことを任せるには安心できるが、新たなことを任せるには物足りない。

 

Cさんは、いつも行動が遅い、消極的だと指摘され、イライラしながら仕事をする。

結果、評価も収入も低く、同じようなひとと、いつも愚痴を言い合っている。

 

当然、チャンスは少なく『問題視』されている。

誰が、もっとも爽快で気分のいい人生を送ることができるかは明白。

 

『感じた衝動』に対し、『人のため』になることを選択することが、豊かな人生になる。

ある出来事に対して、ただ喜ぶ、ただ怒る、ただ悲しむ、ただ反応するのでなく『自分に何ができるだろう?』と『人のため』になる行動を選択する。

 

たとえば台風、洪水、地震、山崩れ、津波、噴火といったコントロールできないこと。

これらに対して、何を学べるのか?

自然を畏れ、自然と共に生きる知恵、ということかもしれない。 

 

または、大切な人との別れや、死、といったコントロールできないこと。

この大きすぎる悲しみに、何を学べるのか?

あたりまえのことなど、なにひとつない、すべてかけがえのないこと、ということかもしれない。

 

日々に感謝し、人に感謝し、食事や家や仕事や、すべてに感謝できるのなら、後悔するような人生には、ならないのかもしれない。

一瞬、一瞬がかけがえのないものと、大切に、後悔しないように、生きていられたなら、『大きすぎる悲しみ』に打ちひしがれることはないのかもしれない。

人生に起こる様々な試練が、学びのために訪れるのだとしたら、試練が訪れる前に学んでおきたい。

 

ではどうすれば学べるのか?

 

『後悔をしない人生』とは、『大切なことを選んで、大切に一瞬、一瞬を生きる』ということ。

大切なことを選び、行動し、学ぶことができれば、試練は無用となる。

それが『ほんとうになりたい自分』になっていく、最速、最短の唯一の道なのかもしれない。