謹啓

 

志半ばに命を終えられた方々のご冥福を心より祈ります。

 

合掌

 

1945年8月15日 天皇陛下より国民に玉音放送によって終戦を伝えた日。

 

日本が世界を相手に兵器で戦った最後の戦争。

中国、ソ連、イギリス、フランス、アメリカという大国を相手にしたこの戦争は二度と世界にこのような悲劇が起きることのないよう祈らざるを得ない結末を迎えました。

 

8月6日 兵器利用として史上初の原子爆弾が広島に投下

 

8月9日 ソ連が日本領土へ侵攻

 

8月9日 長崎に原子爆弾が投下

 

8月10日 緊急に開かれた御前会議で徹底抗戦派と降伏派に意見が真っ二つに割れ天皇陛下より終戦のご意志が告げられた。

 

8月14日 ポツダム宣言受諾

 

9月2日 第二次世界大戦 正式に終結

 

民間人を半数以上、含む6000万人に及ぶ犠牲の下、終戦。

 

 

以下、ねずさんのひとりごと より転載(一部加筆)

 

天皇陛下は終戦後の9月27日、GHQ総司令官のマッカーサーに、ただ一人の通訳を連れてお会いになられ、国際儀礼としてご挨拶の後、仰せになられた。

『日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。

私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。

絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟はあります』 

 

困ったのは通訳です。

天皇陛下は続けて仰せになりました。

 

『しかしながら、罪なき八〇〇〇万の国民が、住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように』 

 

パイプをくわえたままソファに座っていたマッカーサーはその言葉を聞き、態度を変えます。

すくっと立ち上がり、抱くようにソファにおかけくださいと促し、部下にコーヒーを持ってくるよう命じました。

そして言いました。

 

「天皇とはこのようなものでありましたか!天皇とはこのようなものでありましたか!私も、日本人に生まれたかった!陛下、ご不自由でございましょう。私に出来ますることがあれば、何なりとお申しつけ下さい」

 

天皇陛下は再びすくっと立ち上がり、涙を流しお答えになりました。

 

「命をかけて、閣下のお袖にすがっておりまする。この私に何の望みがありましょうか。重ねて国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」

 

そして天皇陛下に問いました。

 

「なぜ開戦を許可されたのですか?」

 

「もし私が許さなかったら、きっと新しい天皇がたてられたでしょう。それは国民の意思でした。こと、ここに至って国民の望みに逆らう天皇は、恐らくいないのでありましょう。」

 

とお答えになられた。

そして8000万人の命を救ってほしいという天皇陛下の願いにマッカーサーは用意しました。

米国大統領から日本国民に1000万人の餓死者を出せと命令されていたマッカーサーは後に命令違反がばれたことを要因に解任されます。

 

~転載おわり~

 

 

あれから69年。 

決して、戦争を美化しようなどとは思いませんし、いかなる理由があろうとも罪なき人民の命を奪うことを正当化などできるはずがないと思います。

 

この戦争の中で、ひとりひとり死に向き合った人たちがいて、その遺志はいかような想いだったのかに想いを馳せた時、その遺志に報わざるを得ない心情にかられます。

 

広島・長崎の原爆、各地で行われた空襲によって奪われた命。

 

東日本大震災、阪神淡路大震災、など天災によって閉ざされた命。

 

今、この時も自ら命を絶っていく人々。

 

人災、天災、時代の災い、という様々な死。

 

死に人がまさに向かったとき、

何を想っただろう?

もし自分だったらどう想っただろう?

 

そんなことを想像することができる日なのかもしれません。

 

そう思うと、このような日は静粛にその声に心を傾けざるを得なくなります。

 

合掌

 

心に残る言葉がありました。

 

「日本のお陰でアジアの諸国はすべて独立した。
日本というお母さんは難産して母体をそこなったが生まれた子供はすくすくと育っている。

今日、東南アジア諸国民がアメリカやイギリスと対等に話ができるのは一体誰のお陰であるのか。

それは『身を殺して仁をなした』日本というお母さんがあったためである。

12月8日は我々に、この重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大決意された日である。

さらに8月15日は我々の大切なお母さんが病の床に伏した日である。

我々はこの二つの日を忘れてはならない」

タイの戦後初の文民首相ククリット・プラモード氏の言葉

 

日本で生まれ日本に育ったのならば、日本を愛して欲しい。

生まれ育った故郷を愛するように、家族を愛するように、この日本という祖国を愛することができたなら、 世界を愛することができるのではないか、と思います。

そして、ようやくその先に本当の平和があると信じています。

 

敬白

 

2014年8月15日 戦後69年 終戦の日に